2007年4月22日 (日)

放射性廃棄物処分場反対派町長勝利

 やれやれ、良かった。

 油断するとどうなるかわからないと、最後まで心配はし続けた。とりあえずほっとしている。

 今後は海陽町周辺の古代からの海運を中心に、歴史観光の方面で、海陽町東洋町の地域経済の底上げを図る方向がないか、探りたいと思う。

 新しいホームページ『海部城』をよろしく。

http://island.geocities.jp/seisuieiko/index.html

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2007年4月20日 (金)

ホームページ作成中

http://island.geocities.jp/seisuieiko/index.html

タイトル「海部城・中世島城の謎」

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2007年4月17日 (火)

東洋町長選あす告示

http://www.kochinews.co.jp/0704/070416headline02.htm#shimen2

上は高知新聞より。

原環機構は、100年に及ぶ処分作業の途中で資金が底をつく恐れがある中で、10億円は貴重な資金であり、決して差し上げられるようなものではない、と、説明する責任があるのではないだろうか。また作業途上で地震に見舞われた場合は決して安全とは言えない、と、説明する責任もあるだろう。

民間の取引では、普通は商品説明に責任がある。欠陥のある商品を説明なしに売ると、責任を問われる。

国の事業では、説明不十分でもかまわない、ということになっている、制度が変ではないだろうか。

その、制度の不備を、小さな町が選挙で争うなんて、おかしなことだ。

頭に血が上っていると、反対派の言うことなんか、耳も貸そうとしないのだから、事業主体が説明するべき問題だろうに。(午前0時)

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2007年4月16日 (月)

メール送信

その他メール送信。日本海事センター・船の科学館・城愛好家の方々。少し前、国立歴史民俗博物館・高知徳島県知事・海陽町観光協会、安倍首相・甘利経済産業大臣。

 観光資源発掘の問題では、私はまだ疑問を述べているばかりなので、説得力に欠けます。にもかかわらず、町内で情報開示に反対する力が働いているような気がするわけですから、少しも安心できないのです。いや、ひょっとすると県で強力な人たちも反対かもしれない。昔見た県史には、大里鉄砲隊の記述がなかったように思うので。携帯用観光案内(歴史散歩)の本にはあります。

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ニュース特集

http://www.kochinews.co.jp/0704/070414headline06.htm#shimen6

原環機構は、地下深くに埋める放射性廃棄物処分場は安全だ、と、東洋町生見で説明会を開いたそうです。賛成派の意見は気持ち悪いです。

原環機構にも経済産業省にもエネルギー庁にもマスコミにも、メールを送っていますが、なにやっても読まれている感じがしないですね。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_d9f6.html

東洋町で恐喝まがいのことが起きているそうです。これだから反対派は静かになってしまうんですね。困ります。

http://geki1015.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_5d5f.html

国民投票法案には私も驚いた。法案を作る人の頭の中も信じられないし、押し切られる側もおかしいと思った。何かが根本的におかしい感じがする。

私は海陽町の観光資源の発掘で、海陽町側の発展と知名度の上昇を狙うことも、今回の問題の解決につながるのではないかと、思っていろいろやってます。

 もともとそちらの方面で長年疑問をもち続けていたので。

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2007年4月13日 (金)

海部城

 ネット上の海部氏の解説もそうですが、海部町史を基本資料にした本は、みな、海部川河口にある城山にあった海部城は、落城の数年前に築かれたもので、海部氏が居城にした期間は短いように書いてあります。

 でも、海部町史ができたのは、私がいろいろ見聞きした後にできたものです。私は、海部城は短命だった印象ではありません。

 以下は小学校校歌です。1番、南海の島阿波の国、太平洋の波寄する、風光明媚の地を占めて、立てり我らの学び舎は。2番、海部の城に苔むして、盛衰栄枯様々に、移りし世よを物語る、歴史の跡に顧みて。3番、高鳴る意気を鞆の音に、誠を奥の名に込めて、浦わを巡る水深く、広く進まん我が友よ。

 中学校校歌。清く明るく健やかに、伸びよと仰ぐ海部城。その城山の緑濃き、山懐に抱かれて、ーーー。

 海部町史ができる前に書かれた校歌は、どちらも、海部の城は、すぐ側の城山にある、と、歌っているのです。江戸初期に壊されたはずなのに、頑丈そうな城がある感じの歌です。

 城山のふもとにある中学校の校庭の名前は「馬谷」で、昔馬場だったという伝承があります。同じくふもとには「射場」という方が住んでおられる。

 江戸時代の代官所系の名前なのか、それとも中世海部氏系の名前なのか。雰囲気では戦国時代って感じです。

 ずっと川上の吉田や吉野に城があったなんて、信じられないです。1445年の兵庫入港記録から考えても、海部氏は港を押さえていたとしか思えない。

 海部公民館報118号に、阿波古城諸誌には1501~3年頃に鞆城とあり、それ以前は島城と呼ばれていた、なんて、まるで矛盾した記述も出てきたりします。

 城の場所もはっきりさせる気がないみたいで残念です。

 突然、海部刀があります、なんて出すよりも、全体の話をごまかすのをやめて、すっきり説明がつくように努力する時代ではないでしょうか。

 具合が悪いことがあっても、今みたいに適当にできるくらいなら、何とでもなるでしょうに。

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2007年4月12日 (木)

海部氏

グーグル検索よりhttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/awa_kaif.html

*「記録によれば、享徳年間(1452~54)から天文年間(1532~54)の約百年間にかけて、百十四万振の海部刀が輸出されたことが知られる。
 まことに膨大な量の海部刀が、海部氏によって朝鮮・中国に輸出されたのである。海部氏が海外交易に従事していたことは、海部氏と関係の深かった大山権現に朝鮮鐘が伝わっており、海部氏が和冦として活躍していたことを裏付けている。」

 海部刀114万振?何の記録なんでしょう。

 こんな調子で、私が田舎にいた頃は、海部刀のことも人の口の端にも上らなかったし、海運のことだって、全然問題にもされなかったです。

 観光要素を考えるなら、もっとしっかり裏付けを付けて、確証を与えた形で明示しませんと、誰も信用してくれません。出里がそこにある私ですら、半信半疑なようでは困る。

 海部川流域で砂鉄が取れましたか?聞いたことがない。江戸時代にも海部で刀剣を作っていたのでしょうか。

 史料、私の知覚範囲に、全く入ってないんです。代官所があったなら、その記録帳があったはずだし、これこれこういう史料がどこそこにあります、刊行されています、というような話でもあるなら信用できますが、

 刊行史料は、海部刀や海運や御鉄砲組の話は全くない部分で、貧しくて支配が容易でない、遠隔地の百姓水夫、という話。

 どうなってるんでしょう。

 東洋町町長選挙で、町長が交代して、多分、このブログも終わるんでしょう。是非そうであって欲しいと思いますが、観光で人を呼べるようにしましょうよ。 

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2007年4月10日 (火)

海陽町の歴史

 と言っても、田舎を出て25年、ウィキペディアなど参考にしつつ、自己体験と記憶を元に書くものです。詳細あるいは知識外のことは確認をお願いします。

 旧海部町高園から弥生時代の遺跡が発見されました。すぐ側には古墳があったのですが、20年以上も前に削られてしまいました。大里の古墳は石室が残っていて、町立博物館内に復元されています。

海陽町立博物館http://www.nmt.ne.jp/~bunka/

中世海部川流域の刀工が作り出した、この地域特有の海部刀http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/furusato/020507.htmを中心とした刀剣コレクションは、全国屈指の質と量を誇る。他に、中世の埋納銭としては四国一の出土枚数を記録する「大里古銭」など、町内で発掘収集された考古・民俗資料を豊富に収蔵している。

 中世には、かなり力を持つ集団がいたらしい。海部川河口、城山は、その昔、川を堀のようにめぐらした、海に面した島で、海部城がありました。

 1445年1年間の、兵庫の港(現神戸港近く)の入船記録史料があります。

 数年前に千葉佐倉の「国立歴史民俗博物館」に行きましたら、その記録の複製が展示してありました。それくらい重要な記録です。その記録に、東洋町・海陽町の港に船籍を持つ船が、多数出てきます。

国立歴史民俗博物館の無料説明資料16に、中世のこのあたりの船籍の船がどれくらい入港したか書いてあって、

甲浦(東洋町)26、宍喰(海陽町)20、海部(鞆浦)(海陽町)54、などと出てきます。船籍地の分布地図も載っています。はるかな昔、このあたりの人々は海運で鳴らしたみたいです。

 東洋町・海陽町と「神戸」とのつながりは、今考えると遠すぎて思いつかないのですが、確固たる史料が残っているのです。

 16世紀後半、土佐から長宗我部氏が攻め入り海部城落城。

 その後阿波を蜂須賀氏が支配するようになって、刀工は城下へ移動。(でもその流れを汲む家系の方が、私実家近所に、住んでおられます)海部城とりこわし。城山に代官所ができます。鞆の港の積荷の管理をしていたらしい。

 そしてなぜか大里に鉄砲隊80人が配属されます。50年後に40人に減ったものの、廃藩まで200年の間、この鉄砲隊は駐留を続けます。(実はこれがおかしいと思ってるんですけど。表向き土佐境の守りと言うけれど、県境には遠い。土佐側には何もない。駆けつけるに近いのは鞆浦の港)

 そして昭和初期まで、鞆の港は、木材の積み出しでにぎわっていたらしい。漁港じゃなくて。

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徳島県側地震被害史(資)料

http://www.osaka-jma.go.jp/tokushima/tsunamihi/tsunamihitop.htm

東洋町の隣に続く、徳島県側には、地震津波被災の記録がいろいろあります。上は石碑として残っているものです。

http://www.osaka-jma.go.jp/tokushima/nankai/higaikiroku.htm

徳島を1000年以上も前に遡っての記録です。

http://www.kochinews.co.jp/jisin/siten021201.htm

幕府を揺るがした南海地震 地盤沈下に押し寄せる津波

http://www.bo-sai.co.jp/tounankai1.htm

1605年(慶長)阿波宍喰(海陽町)で死者1500人

http://www.takaramono.jp/list/bbsi.php?s=28&b=868

宍喰(海陽町)の古記録

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2007年4月 9日 (月)

歴史地震データベース

***「処分費用は約3兆円と試算されています。資金は2000年から2020年まで電力会社が積み立てますが、処分場のモニタリングが終わる2400年頃まで、資金運用の利益が毎年あると見込んで、必要額の約半分しか積み立てません。

 現在の技術のままで安全を確保した処分を行おうとすると、費用が足りないおそれがあることは、NUMOの関係者も述べています。

 処分費用の9割近くは、積み立てが終わった2020年以降に支出する計画なのに大丈夫でしょうか?費用が足りなくなると、結局、安全性の余裕が削られるのではないでしょうか?」http://www.geodispo.org/  解説「埋め捨てにしていいの?原発のゴミ」より

 動いているお金の規模に興味があったので、引用してみました。

*** 「ガラス固化体を運搬・操作している船や車両、港、道路、橋、処分場の地上施設、長大な立坑と地上施設、遠隔装置などが突然の激しい揺れと大津波に襲われれば、

固化体が散乱、損傷して強い放射線がばらまかれ、東洋町と周辺住民が住めなくなる恐れがある。」

石橋克彦『発言席・震源断層上に核のゴミ捨て場』毎日新聞2007年3月18日http://historical.seismology.jp/ishibashi/opinion/070318hatsugenseki_ishibashi.pdf

 石橋先生は1985年に、歴史地震研究のために史料データベースを構築することに、すでに言及しておられますが、現況を見る限り、そんなものはないみたいです。http://historical.seismology.jp/ishibashi/feeling.html

 東洋町に払う10億円を、このデータベース作りに使ったらどうでしょう。多くの分野で活用できるものができるのではないでしょうか。東洋町に拠点を作る方法はないでしょうか。

 とにかく現状のようなデタラメは、たまったものではありません。

 全国の地方史研究者が情報をUPできるようなシステムで情報収集すれば、清濁混在であろうとも、非常に早く参考データベースができるかも知れません。

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