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2007年4月10日 (火)

海陽町の歴史

 と言っても、田舎を出て25年、ウィキペディアなど参考にしつつ、自己体験と記憶を元に書くものです。詳細あるいは知識外のことは確認をお願いします。

 旧海部町高園から弥生時代の遺跡が発見されました。すぐ側には古墳があったのですが、20年以上も前に削られてしまいました。大里の古墳は石室が残っていて、町立博物館内に復元されています。

海陽町立博物館http://www.nmt.ne.jp/~bunka/

中世海部川流域の刀工が作り出した、この地域特有の海部刀http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/furusato/020507.htmを中心とした刀剣コレクションは、全国屈指の質と量を誇る。他に、中世の埋納銭としては四国一の出土枚数を記録する「大里古銭」など、町内で発掘収集された考古・民俗資料を豊富に収蔵している。

 中世には、かなり力を持つ集団がいたらしい。海部川河口、城山は、その昔、川を堀のようにめぐらした、海に面した島で、海部城がありました。

 1445年1年間の、兵庫の港(現神戸港近く)の入船記録史料があります。

 数年前に千葉佐倉の「国立歴史民俗博物館」に行きましたら、その記録の複製が展示してありました。それくらい重要な記録です。その記録に、東洋町・海陽町の港に船籍を持つ船が、多数出てきます。

国立歴史民俗博物館の無料説明資料16に、中世のこのあたりの船籍の船がどれくらい入港したか書いてあって、

甲浦(東洋町)26、宍喰(海陽町)20、海部(鞆浦)(海陽町)54、などと出てきます。船籍地の分布地図も載っています。はるかな昔、このあたりの人々は海運で鳴らしたみたいです。

 東洋町・海陽町と「神戸」とのつながりは、今考えると遠すぎて思いつかないのですが、確固たる史料が残っているのです。

 16世紀後半、土佐から長宗我部氏が攻め入り海部城落城。

 その後阿波を蜂須賀氏が支配するようになって、刀工は城下へ移動。(でもその流れを汲む家系の方が、私実家近所に、住んでおられます)海部城とりこわし。城山に代官所ができます。鞆の港の積荷の管理をしていたらしい。

 そしてなぜか大里に鉄砲隊80人が配属されます。50年後に40人に減ったものの、廃藩まで200年の間、この鉄砲隊は駐留を続けます。(実はこれがおかしいと思ってるんですけど。表向き土佐境の守りと言うけれど、県境には遠い。土佐側には何もない。駆けつけるに近いのは鞆浦の港)

 そして昭和初期まで、鞆の港は、木材の積み出しでにぎわっていたらしい。漁港じゃなくて。

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